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永倉新八

後の世に新撰組の姿を伝えた隊士
新撰組といえば、維新という動乱の中で時代に翻弄されて散っていった人々という印象をお持ちの方もいらっしゃるのではないでしょうか。隊員の多くは戦死、処刑といった様々な形で命を落としています。しかし中には動乱を生き延びて天寿を全うした者もいました。その内の一人が永倉新八です。彼は北海道に渡った後に4年ほど月形村に滞在しました。

永倉新八(杉村義衛)


新撰組に対しての行動

永倉新八は1839年松前藩士150石扶持の禄を持つ長倉家に生まれました。18歳の時に剣の修行のために脱藩、道場めぐりをしている最中に近藤勇と知り合います。その後新撰組では副長助勤、二番隊組長、撃剣師範を務めました。剣の実力は神道無念流免許皆伝、その実力で「池田屋事件」では沖田総司、藤堂平助ら他の隊士が怪我等で倒れていく中で近藤勇と獅子奮迅の戦いをしたと伝えられています。しかし時代は大政奉還、戊辰戦争と激しく流れ、新撰組も旧幕府軍の一員として敗走を重ねます。その中で近藤勇とも意見の相違から袂を分かち、原田左之助らと靖兵隊を組織しますが、会津戦争が終結すると離脱しました。その後町人姿に身をやつして江戸に潜伏していましたが明治2年に松前藩に復帰、翌年に北海道に渡ります。そして松前藩の藩医杉村家の養子となりました。明治8年に家督を継いだ際に名を義衛(義を衛(まも)るという意味)と改名します。明治9年には近藤勇が処刑された板橋(現在の東京都板橋区)の刑場に彼の墓や新撰組追悼の石碑を建てました。その他にも「浪士文久報国記事」を書いたり、小樽新聞(北海道新聞の前身)の記者へのインタビューを元に書かれた「新撰組顛末記」を残しています。


月形村との関わり
修武館(複製)/月形町役場

永倉が月形村に関わるのは明治15年になってからです。月形村は明治14年に開村し、同時に樺戸集治監が開庁しました。その翌年に樺戸集治監の典獄(=当時の刑務所長)・月形潔によって樺戸集治監の剣術師範として招聘されます。永倉は明治19年に辞職するまでの間、看守達に剣を教えたのです。
この撃剣道場には、永倉と親交があった山岡鉄舟から贈られた直筆の「修武館」が掲げられていました。そのことからこの演武場は修武舘と呼ばれていたといいます。この扁額は、現在旭川刑務所が所有しており、月形樺戸博物館ではこの複製をご覧いただけます。



その後

明治19年、永倉は樺戸集治監を辞職した後に上京します。その途中で函館に寄って土方歳三、伊庭八郎らも眠っている碧血碑に弔ったり、米沢では親交のあった雲居竜雄の遺族を訪ねたりしています。上京してからは撃剣の道場を開いて子弟に撃剣を授けたといいます。明治32年に小樽に戻ってからは家族と過ごしました。小樽に戻ってからも、70歳余で東北帝大農科大学(現在の北海道大学)の道場で神道無念流の形を披露したりとずっと剣の道を歩み続けました。そして大正4年、敗血症のため77歳で永眠。彼の墓碑は東京都板橋区にあり、かつての仲間と共に眠っています。